11 2022/06/29版 

11回 女性表象論 

ジェンダー論で捉える映画史 参考テキスト

映画の中の女性像像   

Bの要約テキストの全文ヴァージョンです。

読まなくてよいです。


1-1 理想の女性像


・ピグマリオンの欲望する眼差し


 オードリー・ヘップバーン主演の映画『マイ・フェア・レディ』(1956年)は、同名のミュージカル作品の映画化であった。言語学者の中年ヒギンズ教授が、下町生まれの花売り娘をお嬢様に仕立て上げる間に繰り広げられるコメディで、ヒキンズの思惑どおり令嬢へ変身した街娘イライザに富裕階級のフレディーは恋をしてしまう。


ヒギンズ教授も徐々に変身したイライザのことが忘れられなくなっている自分に気づくのであった。


 ロマンティック・コメディ『マイ・フェア・レディ』は、もともとギリシア神話に登場するキプロス島の王ピュグマリオンの伝説を題材として書かれたバーナード・ショウの戯曲『ピグマリオン』(1913年初演)を原作としている。現実の女性に失望したピュグマリオンは、自ら理想の女性をかたどった美しい象牙の彫刻を作り、彫刻を飽きることなく眺め続けた。やがて彼は彫刻に恋してしまい、食事を用意したり話しかけるようになっていく。そして理想の女性像が人間になることを心から願い、毎日彫像から離れないでみつめ続け、衰弱していった。そんなピュグマリオンの姿を見かねた愛と美と性を司る女神アプロディーテーが、彼の願い叶えて彫像に生命を吹き込んで、人間の女に変える。くれた。ピュグマリオーンは自ら作り上げた理想の女を妻に迎えたという。


19世紀の機械仕掛けのガールフレンドたち


 このピュグマリオーンの伝説を題材としているのは、バーナード・ショウの戯曲の他にもたくさん存在する。19世紀にフランスの作家ヴィリエ・ド・リラダンが書いたSF小説『未来のイヴ』(1886年)もそのひとつである。「アンドロイド」という言葉を最初に用いた作品と言われる『未来のイヴ』では、青年貴族エワルドが、絶世の美貌をもちながら知性が欠落している恋人のアリシアに苦悩していた。エワルドが友人のエディソン博士に自らの恋の苦悩を告げると、エディソン博士はアリシヤの身体から心を取り除く方法があるという。博士はアリシヤとまったく同じ外見の人造人間ハダリーを科学の力で創造できるというのだ。エワルドは悩んだすえアリシヤと別れ、人造人間ハダリーを伴侶とする。しかしエワルドがハリダーを連れて母国イギリスへ戻る途中、乗っていた船が火事に遭い、まだ箱詰めのままだったハダリーは大西洋の藻屑と消えてしまった。SF小説『未来のイヴ』は、フリッツ・ラングの映画『メトロポリス』(1926年)など、後発の作品に多大な影響を与えている。作中に登場する「ハダリー」という名前はペルシア語で「理想」を意味する。


 同じような物語としてオートマタ(機械仕掛けの自動人形)に恋して、その女性が機械と判るだけでなく、壊れてしまうのを目撃して気がふれてしまう男が登場するE.T.A.ホフマンの『砂男』(1817年)と、これを原作として作られたといわれる人形への愛を題材とした、クレマン・フィリベール・レオ・ドリーブ が音楽を手がけたバレエ作品『コッペリア、あるいは琺瑯質の目をもつ乙女』(1870年初演)がある。


 ホフマンは、主に後期ロマン派を代表する幻想文学の奇才として知られるドイツの作家で、作曲家、音楽評論家、画家、法律家、作家と多彩な分野で才能を発揮した。ロマン派の作家の多くが、田舎の田園風景を称賛する作品を著したの対して、ホフマンは都会を好んで描いている。現実と幻想とが入り混じった特異な文学世界と評された。ホフマンの小説では、自動人形やドッペルゲンガーといった不気味なモチーフが多く扱われている。


 ホフマンが活躍した18世紀後半から19世紀初頭とは、フランス革命を契機として、それまでの王政と旧体制が崩壊して、自由主義とナショナリズムがヨーロッパに広がっていった時代である。そして紡績機や蒸気機関(蒸気船と蒸気機関車)などが発明されて、機械による製産と移動が台頭化した産業革命の時代であった。


 そのような旧体制の崩壊と入れ替わりに訪れた機械化の聡明時期に、ホフマンは『砂男』に登場する自動人形を自ら作っていた。自動人形――オートマタとは、機械的な仕掛けで自動で動く人形、いわゆる「からくり人形」のことで、18世紀から19世紀前半にかけて広く普及した。美術的な価値の高い外見をもつ人形の中に、時計職人たちの高度な技術を詰め込んだオートマタがヨーロッパ各地で次々と作られた。娯楽的な鑑賞目的だけでなく、宗教的な儀式での使用を目的としたオートマタ人形も数多く存在していた。


 13世紀に入ると時計の製造技術が飛躍的に向上した。ゼンマイにより蓄積できる動力は15世紀以降に発展していった。産業革命は水力や蒸気といったエネルギーを使い、機械を動かすことで可能となったのだが、それ以前からゼンマイを動力として歯車を動かす時計のような、小さなものを正確に動かす技術は、産業革命以前から一般的に広まっていたのである。それこそがオートマタ人形を動かす動力と仕組みであった。ホフマンはそのようなカラクリのテクノロジーをつかって動く理想の女性を夢見ていたのだろうか。


 スチーブンソンのつくった蒸気機関車が走り出し、エジソンが電球や蓄音機を作り出した19世紀とは、動力と機械が相互に結びついていった時代であったが、一方で、写真と映画が発明された時代である。(ダゲールがフランス学士院科学アカデミーの定例会において、芸術アカデミーとの共催によりダゲレオタイプに関する公開講演を行ったのは1839811日だった。リュミエール兄弟が現在のカメラや映写機と同様の機構をもつシネマトグラフ・リュミエールを開発して、パリのグラン・カフェで有料の試写会を開いたのは18951228日だった。)


 リランダが『未来のイブ』を書いた19世紀終盤の1886年には、ゴットリープ・ダイムラーらが世界初の4輪ガソリン自動車を発明している。そしてホフマンの『砂男』を題材にして「不気味」という感情の源泉を分析した論文『不気味なもの』を書いたジークムント・フロイトが、精神科医としてウィーンで開業した年である。


 ダゲールによる写真の発明から、すでに半世紀近くの時間が経過していて、写真が一般社会に溢れていた時代である。うり二つの人物の像を複製してしまう写真を眺めながら、リランダは心を置き去りにして、外観だけ写し取る人造人間を想像していたのだろうか。(それからほんの10年後には、映画によって模倣された人間の動く様が見られるようになった。)


 ホフマンが愛した機械人形のオートマタの製造は19世紀の終わり頃から衰退する。電気工学が急速に発展して、機械仕掛けの動力が根本的に変っていった。19世紀の後半では、オートマタが発していた神秘性や驚きも、もはや新鮮なものではなくなっていった。20世紀に入ってから電動仕掛けのオートマタもいくつか作られたが、かつてほどの注目を集めることはなかった。



・他者の外見を所有する


 自ら彫り上げた女性像が神の力によって動き出したピグマリオンの物語をもとに、機械人形が作られるホフマンの『砂男』と、発明家エジソンの名を模した科学者の手によって科学の力で作られた動く理想の女性を夢見たリランダの『未来のイヴ』、それらは女性の像(イメージ)に恋してしまう男性たちの物語である。共通しているのは理想を現実のものにしようという欲望であった。


 それらの物語では男性の手に入らない女性への想いと現実の差が共通のテーマになっている。男性の女性に対するイメージの追求が描かれているのである。


 ピグマリオンの伝説は理想が現実になってしまう幸せが、他の二作では失ってしまうことで、耐え難い不幸がやってくる。理想の追求を諦めていたとしても、おそらく結果は変わらない。堂々巡りの苦悩が続いただろう。機械の人形や象牙の彫刻が相手という特殊な物語ではなかったとしても、そのような恋愛の葛藤を誰もが経験するだろう。この葛藤は人類の歴史の中で何度も繰り返されてきたのだ。それは男性のエゴにまつわる説話である。美しい女性を手に入れたいという「視覚的な所有」についての物語でもある。


・機械仕掛けからフィルム仕掛けへ


 リランダが「未来のイブ」を書いた9年後の1895年に、人類は動く人間の外観を記録して再生できる映画を発明する。それはまさに魂のない外観を、フィルムに写し取る複製技術であり実体のない機械美女の発明になった。アイドルや美しい女優たちが登場する映画に向けられる我々の眼差しと、美しい彫刻の女性を見つめるピグマリオンの眼差しに、たいした違いはない。


 映画の発明以前の絵画の歴史でもそうであったが、映画は発明されてからずっと女性像を表象してきた。映画の誕生から一世紀以上が経過した現在まで、我々は映画によって写し取られた他者――複製された幻影の身体を眺め続けてきた。複製の身体はスクリーンにどのように映し出されてきたのだろうか。とりわけ男性はどのように映画という媒体において女性を眺めてきたのだろうか。


 神話、小説、戯曲(演劇やバレエ)、そして絵画や彫刻で、これまで語られてきたのと同じく、映画も常に理想の人間像を表象してきた。映画(を含む映像メディア)は、記録された身体の有り様、さらに物語の中で男優や女優が演じる外見を通して、身体的な性差と、その魅力を表現する媒体である。そして映像は社会的・文化的な性のありよう――いわゆるジェンダーを、もっとも強度に描いてきた。さらに映画が我々の社会的な性差のイメージそのものを確立してきた。そのような映画におけるジェンダー、とりわけ女性の表象がどのように変化してきたのか、いくつかの例を挙げながら考察していく。

            

2 助けを待つ女たち


・囚われの姫君


 Damsel in distress(ダムゼル・イン・ディストレス)とは、映画や小説に登場する女性キャラクターの類型である。『眠れる森の美女』(ヨーロッパの古い民話童話。アールネ・トンプソンのタイプ・インデックス:AT分類410と、同タイトルの1959年制作のディズニーアニメ)や『いばら姫』(グリム童話集、KHM 50)『スター・ウォーズ』(1977年)のレイア姫、または『スーパーマリオ』(1985年)のピーチ姫など、囚われの姫君たちがその例となる。


 古くは神話におけるアンドロメダ型神話の英雄譚に多く登場する。アンドロメダ型神話とは英雄が竜などの怪物と戦って、囚われの姫君を助け出すといったストーリーを持つ神話の定型である。


 アンドロメダはギリシア神話の王女で、母親のカッシオペイアが自分の美貌が神に勝ると自慢したのに怒った神々によって化け鯨に生け贄として捧げられる。アンドロメダが波の打ち寄せる岩に鎖に繋がれ、怪物の餌食になろうとしていたところに、怪物メドゥーサを退治して、その首を携えたペルセウスが通りかかる。ペルセウスは目を合わせたものを石に変えてしまう眼力をもつメデューサの首を怪物に向けて石にしてしまい、アンドロメダを救出する。後にアンドロメダはペルセウスの妻となる。


 日本神話における須佐之男命(スサノオノミコト)が、ヤマタノオロチを退治して、生け贄の櫛名田比売(クシナダヒメ)を救う逸話も、アンドロメダ型神話の類型と考えられる。櫛名田比売(クシナダヒメ)もDamsel in distress(ダムゼル・イン・ディストレス)の代表的な姫君のひとりなのだ。


 ダムゼル・イン・ディストレスは現代の小説・映画・マンガ・アニメなどにも頻繁に登場する。ダムセルとは若くて未婚の女性のことで、悪者・怪物・異星人にさらわれて危機におちいる役回りで登場する。その多くは囚われて縄や拘束具で縛られるか檻に入れられる。または監視付きの軟禁状態におかれ自由を奪われている。英語でDamsel in distressとネット検索すると、縄に縛られて線路の上に横たわるたくさんの女性たちの画像が見つかる。それらはアメリカの西部劇映画における類型的なヒロイン像である。ダムゼル・イン・ディストレスとは物語における類型なだけではなく、シチュエーションを表すイメージとしても通用する類型になっているのだ。


 これらの表象は、危機に陥った女性というシチュエーションに対して著しく興味を引かれる人々の対象にもなっていて、ある種のフェフェティシズムと密接な関係をもっている。そのような囚われの姫君たちのイメージは、ジョン・ウィリーやアービング・クロウらによって1950年代に出版された『ビザール』などのボンデージマガジン、ボンデージコミックで、こうした嗜好性をよりフェティッシュなものへと置き換えられた。それらの雑誌では衣服を着たまま拘束される美女たちのイメージがこれでもかと載せられていて、ダムゼル・イン・ディストレスが物語から切り離された状態で表象されている。


・サクリファイス・ジェンダー


 ギリシャ神話『ピュラモスとティスベ』(桑の木)を元にしたウィリアム・シェイクスピアの戯曲『ロミオとジュリエット』(1595年頃)について詳しく説明する必要はないだろう。14世紀のイタリアの都市ヴェローナで、敵対する両家の若い男女が許されない恋に落ちる。物語の終わりでヒロインのジュリエットは偽の毒薬を使った仮死状態となるが、ジュリエットが本当に死んだと思ったロミオは毒を飲んで死んでしまう。仮死状態から目覚めたジュリエットもまた息絶えたロミオを追って短剣で自死する。愛するロミオのために苦難に耐えるジュリエットは、ロミオと結ばれないだけでなく、最後は自らの命を絶つ貞淑な女性である。シェイクスピアの戯曲における同様の哀しい運命をたどる女性として『ハムレット』(1960年頃)にも度重の悲しみのあまり気が狂い溺死してしまうヒロインオフィーリアがいる。(溺死するオフェーリアの哀れな姿はミレーを始めとする画家たちの手によってたくさん描かれている)彼女たちは家や時勢といった社会的な制約に囚われた姫君であり、待ち続けたけれど報われて解放されない。さらに愛する主人公の死や変貌に絶望して絶命するのである。


 そのようなヒロイン像は多くの映画や小説の中で繰り返し登場している。日本映画では、林芙美子原作による成瀬巳喜男の『浮雲』(1955年)で高峰秀子が演じたゆき子や、『東京都物語』(1953年)で原節子が演じた戦争未亡人の紀子も報われない囚われの姫君の類型のひとつと考えられる。戦争未亡人の紀子は戦死した主人のため生涯再婚しない女性であり、その生涯を死者に捧げようとする。その姿勢はジュリエットと同じく他者の死を受け入れつつ、残りの人生を生きようとする女性たちである。『寅さんシリーズ』(1969年~1997)のマドンナたちの中にも、同じゆな女性たちがいた。


 ジュリエットに代表される自分の命を捧げる貞淑な女性――悲恋の物語のヒロインはみな愛の殉教者――サクリファイス・ジェンダーである。彼女たちは愛に囚われ、助けがやって来なかったり、恋人が死んでしまうという悲劇のヒロインたちなのだ。


 通念的なダムゼル・イン・ディストレスが登場する物語の主人公は彼女たちではない。見事に彼女たちを救い出して結婚する勇敢な男性の物語である。ダムゼル・イン・ディストレスの姫君たちは最終的に男性の所有物となって、彼女たちもまた幸せになったと語られてきた物語に登場するのである。それらと異なりサクリファイス・ジェンダーの女たちに救いは訪れない。あるいは救われたが、独り残されてしまう。女たちの末路は、不幸せな結果に終わってしまう。これらもダムゼル・イン・ディストレスの別の類型にはちがいない。そのような不幸せなダムゼル・イン・ディストレスの物語も、男性たちの存在のもとで成立可能な物語として描かれてきた。


・男性物語における女性像 ~褒美としての女


 構造分析を昔話に適用したロシア・フォルマリズムを代表するウラジーミル・プロップは『昔話の形態学』(1928年)で、物語を「昔話の構造31の機能分類」に分け、そして登場人物(物語における主要キャラクター)を「七つの行動領域」に分類している。


 囚われの姫君は七つの行動領域のひとつ「王女(探し求められる者)とその父」に該当する。彼女たちは主人公の男性によって探し求められる者――囚われるか、連れさらわれた人格として分類されている。しかし彼女たちは「王女(探し求められる者)とその父」というように、父親である王の一部、あるいは所有物としての機能をもつと分類されている。さらに物語構造における役割として「王女」とは、人格を有しているが、敵対者や主人公の間で奪い合われるもの(ルビ:・・)であり、最終的に結婚により主人公の活躍に対する褒美として与えられる対象物としての機能をもつ。すなわち、やりとりされる「アイテム」に近い存在でしかないのである。彼女たちは物語における他の登場人物たちの間でやりとりされる「対象」にすぎず、そこに人格の描写が必ずしも必要ではないとプロップは指摘している。(ウラジーミル・プロップの『昔話の形態学』(1928年)については、大塚英志著『ストーリーメーカー 創作のための物語論 (アスキー新書 84)』(2008年)で詳しく説明されている)


 女性の社会的認識に関わる話であるが、神話などこれまで語られてきた物語のほとんどは男性を主人公に据えた展開であり、そもそも男性のために作られて、語られてきた物語である。


 そのような物語構造は映画史においても随所に伺える。たとえば一般的にディズニー・プリンセスと呼ばれる、これまでディズニーのアニメ映画に登場した女性キャラクターたちを例にあげたとしても、ヨーロッパで古くから伝承されてきた説話をまとめたグリム童話を題材とするアニメ化作品『白雪姫』(1937年)や『シンデレラ』(1950年)から始まるこれまでのプリンセス・ストーリーでも、彼女たちは物語の構造においては、やりとりされる対象でしかなかった。(『ポカホンタス』(1994年)や『プリンセスと魔法のキス』(2009年)辺りから、そのような「やりとりされる対象」としての女性ではなく、明確な人格をもつ人物として描かれている女性たちが物語を牽引していく展開になっている)


 ダムゼル・イン・ディストレス型の女性とは、プロッブが指摘しているように、物語において人格としての自立を必要としない対象にすぎなかった。鎖につながれたアンドロメダからいままで彼女たちは奪還される対象であり、勇者への褒美として物語に登場してきた。ジュリエットやオフィーリアも、勢力を競い合う男性社会における所有物として描かれていて、自らの命を絶つことで、彼女たちは所有される状態から脱出しているのである。


3 逃げる女


・フェミニズムの歴史


 フェミニズム思想は、男女同権運動と関わりが深い。近年ではフェミニズムの思想は多様であり一つの思想と考えることはできない。


 その流れは歴史的に三つに分類される。


 ひとつめは、フランスから始まる18世紀より20世紀初頭までで、近代国家における投票権や参政権のほか、就労の権利や財産権などの法的な権利の獲得にかかわる闘争であった。1789年のフランス革命により採決されたフランス人権宣言が、その権利を男性にのみ与えていることを問題視した女性たちによる抗議運動が発端とされるフェミニズムの運動がヨーロッパ中に拡がっていった。


 ふたつめは、20世紀初頭から1970年代までに、アメリカを中心にしておこった運動である。働く権利だけでなく職場における平等、男子有名大学へ入学できる権利、中絶の合法化などの獲得を目指した女権運動を指す。


 みっつめは、1970年以降の法と制度上の明確な差別が徐々に撤廃されるようになった結果、これまで見えてこなかった様々な問題が議論の俎上にあげられた運動である。人種や民族、性的指向、階級、多様な女性たちの経験を反映させようとする動きである。ジェンダー観(社会的、文化的に構築される性)が改革されるべきといった主張がでてきたのはこの段階とされる。


 1970年代以降からフェミニズムからジェンダーへと概念が明確になっていった。ポスト・ダムゼル・イン・ディストレス的な女性像が社会的コードとして登場するようになった。大衆映画においてもジェンダーのイメージが表象されはじめた。(再考!)


・エレン・リプリーとサラ・コナーズの登場


 ダムゼル・イン・ディストレスは太古の神話から続く物語の重要なキャラクターとして存在する。その一方でエンターテイメント性の強い映画を俯瞰してみると、以前と比べて扱われなくなるか、扱いが変わってきているように思える。


『ポパイ』(1930年代~1970年代に制作されたアメリカのコミックカートゥーン作品)で、悪漢ブルートの手から助けてもらおうと必死にポパイの名を呼び続けるオリーブ嬢のような、弱さを露呈する役割を担った女性たちは、80年代以降から自ら拘束具の道具から抜けだして、救援にやってきたヒーローの助手として戦いに加わるか、あるいは自ら戦う戦士と化す。たとえば『スターウォーズシリーズ』で囚われの姫君だったレイア姫が、自ら戦闘服を着て戦士となっていったように。


 そのような80年代から始まる新たな女性表象の例として挙げたいのが、SFホラーの古典として知られるリドリー・スコット監督の『エイリアン』(1979年)に登場するシガニー・ウィーバー演じる主人公エレン・リプリーと、ジェームズ・キャメロン監督による『ターミネーター』(1984年)とその続編に登場するサラ・コナーズである。


・エイリアン


 『エイリアン』の主人公リプリーは、もともと宇宙貨物船ノストロモ号の航海師である。彼女は恐ろしい怪物と戦う戦士ではなく、職業に就く一般的な女性だった。


 宇宙貨物船ノストロモ号は、他恒星系から地球へ帰還する途中で、人類初となる異星人の文明と遭遇して、未知の惑星に降り立つはめになる。その結果、船内に侵入した異星人の幼虫が、クルーを次々と殺害しながら成長していく。乗組員たちは様々な方法でエイリアンの始末を試みるのだが、ことごとく失敗して次々殺されてしまう。最後のひとりとなったリプリーはノストロモ号を自爆させ避難用シャトルで脱出するのだが、戦いはそれで終わらなかった。


 この映画の冒頭シーンで、乗組員たちは揃いのアンダーウエアに身を包み、人工睡眠のカプセルの中で寝っている。映画はカプセルが開いて、彼らが目覚めるシーンから始まる。映画で描かれる未来世界では男女の垣根は意識的に排除されている。リプリーともうひとりの女性クルーのランバードは、他の男たちと寝起きを共にしている。男たちと性差の区別なく仕事をこなしている。彼らの会話からも男女の区別は感じられない。フェミニズムなど存在しない、(いや、ジェンダーの未来状況として)マッチョな社会状況は続編の『エイリアン2』で、より明瞭に描写される。


・体内の蛇と母体


 ハロルド・シェクターは『体内の蛇フォークロアと大衆芸術』(1992年)において、『エイリアン』と欧州で16世紀から語りつがれてきた「体内の蛇」と類型される民間説話の共通点を指摘している。また、『映画の構造分析 ハリウッド映画で学べる現代思想』(2003年)において『エイリアン』をジェンダー映画のメルクマーク作品と位置づけて論じる内田樹は、ハロルド・シェクターの推論をさらに推し進めてエイリアンとは女性を妊娠させようとする男性の性欲を表し、それに対抗するリプリーはフェミニズム志向の象徴として精神的な女性を表していると分析している。


 本来、懐妊は「お目出た」といわれるように、祝福されるべき事柄である。しかし妊娠する女性自身にしてみれば自分の身体の中に他者の侵入を許して巣くわれると捉えることもできる。種子が植えつけられ、体内で育っていく他者に身体を支配されていく状態なのだ。民間説話の「体内の蛇」とは、間違って蛇の卵を飲み込んでしまった娘が妊娠して蛇の子どもを生むか、蛇が娘の腹を食い破って生まれるという恐ろしい説話で、それと同じく他者の侵入による自己崩壊の恐怖が『エイリアン』で表される。


 女性器を想像させるフェイスハガーと呼ばれるエイリアンの生殖体が、エッグチェンバーという卵のようなものから飛び出して、宿主となる人間の顔に張りつく。フェイスハガーは口内に長い寄生管を挿入して寄生体を宿主に注入する。植え付けられた寄生体は宿主の身体の中で育って、幼体であるチェストバスター(胸の破壊者)が、その名の通り宿主の体を突き破って体の外へ出てくる。勃起した男性器を思わせるチェストバスターが誕生するとき、宿主となる人間は想像を絶する苦痛に襲われ、胸を突き破られて死亡する。そしてエイリアンは獲物を喰らい続け、人間的な肢体を持つ成体へと成長していく。『エイリアン』で描かれるのは、文字通り他者の身体への侵入と、犠牲となる者たちの死の恐怖である。宇宙で語られる「体内の蛇」の悪夢的な蛇であるエイリアンのデザインは、現代シュールリアリズムの鬼才H.R.ギーガーによるものである。それらは生殖器的な形状と、これまで人間が遺伝的に恐怖の対象として恐れてきた蛇と悪魔的な偶像が混じったような姿をしている。


 さらに内山はこの悪魔的映画の中で、生殖の象徴であるエイリアンと同様に、宇宙船そのものが母胎としての隠喩をおびて描かれていることに触れている。最終的に爆発する宇宙貨物船ノストロモ号を制御しているコンピューターはマザーと呼ばれ、船そのものが女性の母体であることを暗示する。船の爆発は男性の射精という生殖のための絶頂に例えられていて、爆破のカウントダウンとともに中枢コンピュータールームの床からせりあがってくる銀色の棒は、射精に向かう男性器の象徴であり、コンピューターのマザーに懇願しながら半狂乱のリプリーが盛り上がってくる棒を必死に押し戻そうとするのは、体内への射精を静止させようとする女性を表していると内山は指摘する。


 主人公であるリプリーは、映画の序盤では控えめな存在として描かれている。しかし他のクルーがエイリアン――未知の生命をを船内に持ち込もうとする段階――蛇が体内へ侵入する場面から主役的な存在として描かれ始める。最初に書いたとおり、男女の境界や概念がなくなっている未来社会において、ただの職業人にすぎなかったリプリーは侵入してくる蛇と対立する戦う女性として活躍を始めるのだ。


 映画の終わりで蛇の巣と化した宇宙船から、かろうじて逃げ出したリプリーは、地球に帰還する脱出用シャトルの中で人工睡眠に入るために、映画の冒頭と同じく、作業服を脱いで下着姿になる。それは最後になってようやく示された彼女の女性性の証である。しかしエイリアンも爆発した船から脱出していて、彼女のシャトルに乗り込んでいた。そしてリプリーの最後の戦いが繰り広げられる。リプリーは脱出用シャトルからエイリアンを排出して焼き殺して勝利する。他者は外部へと排出されてしまうのである。そしてリプリーはようやく安堵の眠り――帰路のための人工睡眠につくのであった。


 繰り返しになるがリプリーは男女の垣根がない未来世界の労働者で、ツナギ姿で他の男性労働者たちと一緒に力仕事をこなしている。しかし船内にエイリアンが侵入してしまい、身に危険が迫るにつれて、リプリーは性差のない労働者から女性人格へと変わっていく。男女差のない社会的状況から、男性の象徴である蛇の侵入によって、彼女の女性的感性が発動されるかのようにである。『エイリアン』では、強度化させる女性らしさに比例して、女性が戦う者になっていくのである。


*内田樹『映画の構造分析 ハリウッド映画で学べる現代思想』昭文社2003年 P57 

*『体内の蛇フォークロアと大衆芸術』ハロルド シェクター (), Harold Schechter (原著), 鈴木 (翻訳), 吉岡 千恵子 (翻訳



・ターミネーター


 『ターミネーター』といえば、ボディビル出身の俳優アーノルド・シュワルツェネッガーを一躍スターダムに押し上げたSF映画である。シリーズ化されこれまで5作品が制作されている。2008年からはテレビシリーズ作品として『ターミネーター サラ・コナー クロニクルズ』が放送されている。ほとんどの人が黒い皮ジャンにサングラス姿で機械人間を演じたシュワルツェネッガーを想いだすだろう。しかしデス・フューチャーSF映画の金字塔的作品となった第一作『ターミネーター』(1984年)と、続編の『ターミネーター』(1991年)における実質的な主人公は、殺人ロボットに追い掛けられるサラ・コナーに他ならない。


 サラ・コナーはごく普通のロスアンジェルスに住む若い娘だった。人工知能スカイネットが指揮する機械軍の攻撃で人類は近い将来に絶滅の危機を迎えるのだが、そんな未来の世界で機械と戦う人類を指揮するジョン・コナーとは、これから先にサラが産む息子である。ジョンの存在を歴史から抹殺するため、母親のサラを殺害する目的で、未来から現代へ殺人ロボットターミネーターが送りこまれる。そして人類側も兵士カイル・リースを、サラの護衛のため未来から現代へ送りこむ。こうしてターミネーターに狙われるサラとカイルの逃走が始まる。カイルはサラを殺そうとする男が未来から送り込まれた殺人ロボットで、サラが死ぬまで狙い続ける事、そして自分は彼女の息子ジョンの指示で、彼女を守る為に現代へやって来た事を話す。しかしサラはその話を信じようとしなかったが、追ってくるターミネーターから逃れるためサラはカイルと行動を共にする。やがてサラは次第にカイル心を開くようになり、お互いを愛するようになってからだを交わすのであった。その後二人は再びターミネーターに襲われて、カイルはターミネーターを爆破するのだが、その戦いで死んでしまう。カイルの死を悲しむサラも片足に重傷を負ってしまうのだが、傷ついたサラに、爆破されて上半身と右腕だけの姿になったターミネーターが再び襲いかかる。ターミネーターとの戦いの末、サラはひとりでターミネーターを完全に破壊するのであった。


 それから数ヶ月後、お腹にカイルとの間にできた息子のジョンを宿したサラは、人間に化けたターミネーターを察知するゆういつの方法である犬を連れて旅立っていた。給油のために寄ったガソリンスタンドの少年が、ポラロイドカメラでサラを撮影して写真を渡す。犬を連れてジープに乗るその写真は、未来からやって来たカイルが、サラを探すために持っていたのと同じ写真だった。「嵐が来るよ」と心配する少年の問いかけに「ええ、分かってるわ」と答えて、サラは荒涼とした荒野に向けて、ひとりジープを走らせて去っていく。


・抗争する母


 サラ・コナーもリプリーと同じく襲いかかってきた危険のため逃亡をを余儀なくされるヒロインである。しかしリプリーが他者にむしばまれる――懐妊から逃れるための抗争に身をおく女性へと変貌したが、サラは懐妊によって、息子と人類の未来を守る役割を引き受け抗争する母親になった。つまりリプリーは懐妊の恐怖に抗争するののだが、サラは子供を産んで育てようとする母親となって抗争に身をおく女性である。


 続く『ターミネーター』では、サラは少年へと成長した息子に、銃火器の扱いや、コンピューターのハッキングと、生き残るためのサバイバル術を教える。息子を守るためサラと息子のジョンはメキシコの犯罪者一味に身を寄せていていたが、サラはアメリカ国内で逮捕されてしまい、精神を病んだ犯罪者として、息子と引き離されて精神病院に収監される。そこに次世代型殺人サイボーグが未来から送り込まれてくる。サラと息子のジョンは機械の敵に追われながら、未来で人類の敵となるスカイネットの構築を阻止しようとする。


 彼女の戦いを理解してくれるものはだれもいない。その孤独な姿からは、ひとりで子供を育てる母親の苦悩が、サイエン・スフィクションの映画に置き換えられているように思える。


・ファイティング・ジェンダー


 エレン・リプリーとサラ・コナーは、それまでのダムゼル・イン・ディストレスの類型の娘たちとは異なり、彼女たちはだれからも助けてもらえない。そして恋人の死に直面しても、ジュリエットのように自ら命を絶つ女性ではない。ひとりで生きていこうとする強さをもった女性である。その姿は70年代後半から始まった新しい女性表象の類型のひとつであり、ファイティング・ジェンダーと呼んでよいだろうか。


 ファイティング・ジェンダーたちは、自分たちを破壊しようとする対象から逃げきって映画は終わる。しかし彼女たちに幸せは訪れない。一応の安楽は手に入るのだが、彼女たちは追従者によって徹底的に陵辱され、さらなる戦いが続編で描かれる。そのような戦う女性たちの姿が、SFに限らず、社会ドラマ、コメディー、恋愛ドラマなどの映画で、1970年代の終わり頃から表象されるようになった。


 ジェームズ・キャメロンの『タイタニック』(1997年)で、ケイト・ウィンスレットが演じたローズ・デウィット・ブケイターもそのひとりである。彼女は氷の海に沈んでいく恋人ジャック・ドーソンの後を追って死ぬのではなく、生きていくことを決意する。それまでの社会的ポジションを捨てたローズは自立した女性として100歳になるまで生きながらえる。彼女もまた戦う女性のひとりである。


・逃げる女を追い掛ける視線


 別の捉え方してみると、戦う彼女たちは襲い来る宇宙生物や殺人ロボット、沈没する船から逃げる女性たちである。つまり逃げることが彼女たちの抗戦の目的である。彼女たちに襲いかかるのは絶対的な力である。サラ・コナーとエレン・リプリー、そしてローズ・デウィット・ブケイターを追いかけてくるのは、存大な暴力である。それは間接的に男性を象徴している。その追い掛けてくる男性的なものとは、映画をみている観客側の視点ではないだろうか。これらの映画で逃げ惑う女性を追いかけているカメラの眼差しと、スクリーンを凝視している男性たちの視点が同化する構造が伺われる。


 最初に書いたとおり、『ターミネーター』の主人公はシュワルツネッガーではない。しかしこの映画を観た人々の印象に残るのは悪役として非力な女性を追いかけ続ける残忍な男性ロボットである。当初サラはなにもひとりではできない、未来からきた救援者に身を任せる受け身の女性であった。『エイリアン』のリプリーは、冒頭で主役としての頭角を示さない。『タイタニック』のローズは、気が強くて、金持ちのフィアンセのアプローチに怪訝な態度をとりつつも、母親に従って認めたくない婚約をい受け入れていた。その状況に耐えかねて(オフィーリアと同じように)船から身投げしようとするのだ。そこをデカプリオ演じるジャックに助けられ、彼の生きている自由奔放な世界へ連れて行かれる。主導権をもっていたのはジャックであり、彼女はジャックに追従することから、だんだんと自分を縛っていた社会的制約から逃げだしていくのである。そして彼女の葛藤の舞台となっているタイタニック号の沈没という、別の困難が訪れる。社会的な呪縛から逃れた彼女の状況は、沈没する船から逃げなければならないという、現実と入れ子構造になっている。その渦中でローズは映画の終わりに向かうほど、自立した女性として活躍するように変貌していくのであった。


 彼女たちは戦う女たちであると書いた。それは自らの身をまもるための戦いで、攻撃する戦いではない。自衛のため戦うのである。映画における彼女たちの役割は逃げることに終始する。身動きが取れない囚われの姫君ではなく、囚われないように逃げる女たちなのだ。ダムゼル・イン・ディストレスが囚われの姫君なら、彼女たちは自ら逃げだした姫君であり、追いかけてくる無慈悲な力から自分自身を守るためファイティング・ジェンダーたちは逃げる。


 逃げきった彼女たちの自立した姿は美しくもあるが、一方でだれもが孤独である。ジェンダーとフェミニズムによる個人の権利は、同時に個人を孤立させ、それまでとは異なる自己意識を導き出してきた。それまでよしとされてきた(であろう)社会的な個人とは、多少なり異なった個人の有り様が、これらの映画で誕生した。それでも強く生きていく人間の姿、それは男女の垣根を越えて精一杯生きていこうとする人間の姿である。


 これらの映画で最後まで逃げる女たちの姿が写し続けられる。生き残った彼女以外の男たちは、みんな死んでスクリーンから消えていく。泣き叫んで、脅える彼女たちの姿を最後まで見とどけているのは、観客席に座っているあなただけなのかもしれない。


 プロップの物語論において、やりとりされる対象物に過ぎない囚われの姫君たちは、捕まらないよう逃げる姫君となった。新しい姫たちの物語構造では、助けに来る王子は存在するが最終的には死んでしまう。これまでの神話化されてきた男性英雄譚ではなく、逃げる女性たちの英雄譚は、男性たちをどのように魅了し、ジェンダーについての代表的な表象であり、次なる女性の身体と意識を生成する。


4 動的な女性イメージ


・デジタル技術のお伽話


 スティーヴン・スピルバーグにより1993に映画化された『ジュラシック・パーク 』では、CGIの恐竜が大挙して押し寄せてきた。それ以降の映画におけるCGI技術の台頭について、詳しい説明はいらないだろう。映画は莫大な制作費用を投入して可能となる視覚効果の優位性をこの時点から入手した。CGI技術により映画は新たな表象の装置として進化した。


 俳優を合成する背景をCGIで描き、カメラ・コントロールの手法で、動的なショットを展開していくのが、ここ最近の映画の主流だ。特に戦闘シーンやカーチェイス・シーンといった極度に動的な被写体を見せるアクション映画では、ブレッドタイム(注)やモーション・コントロールといった斬新な撮影方法や、ありとあらゆるCGIで作成されたイメージ合成、さらに収録されたイメージをデジタルでコントロールするなど、これまでにないダイナミックなイメージの作成が行われている


・アンジェリーナ・ジョリーとミラ・ジョヴォヴィッチ

 あるいはアン・ハサウェーとスカーレット。ヨハンソン


 そのような今日のアクション映画の多くで主役を演じているのは女性たちである。それら女性が主役のアクション映画について論考していくために、ここでは二人の女優の名前を挙げる。


 その一人がアンジェリーナ・ジョリーである。ドイツ系アメリカ人の父とフランス系カナダ人とイロコイ族の血をひく母親の間に産まれたアンジェリーナ・ジョリーは、『サイバー・ネット』(1995年)でデビューしたのち、人気テレビゲームを実写化した映画『トゥーム・レイダー』(2000年)とその続編(2002年)、『Mr.&Mrs. スミス』(2005年)、『ウォンテッド』(2008年)、『ソルト』(2010年)といったアクション映画に出演している。


 もうひとりはミラ・ジョヴォヴィッチである。旧ソビエト連邦出身の女優で、ゲーム作品の映画化で、これまで四作制作された『バイオハザードシリーズ』(2002年~)の他に、リュック・ベッソンの『フィフス・エレメント』(1997年)や『ジャンヌ・ダルク』(1999年)、『ウルトラ・ヴァイオレット』(2006年)など多くのアクション映画に出演している。(ゾンビ映画の類型である『バイオハザード』については別章「映画と夢」で触れている)


 彼女たちに代表される昨今の「女性ヒーローもの」とでも呼べそうなアクション映画にはいくつかの共通点がある。


 これまで述べてきた「囚われの姫君」たちが、男の英雄物語で対象物として描かれていて、動的な視覚対象としては描かれてこなかった。そして「逃げる女性たち」であるサラ・コナーやリプリーでさえ、戦うのではなく受動的な自衛の戦いを余儀なくされた女性主人公であった。それらと比べて2000年代以降の映画で、主役を演じている彼女たちは、次から次に襲いかかる問題に能動的に立ち向かい、自ら能動的に戦いに身を投じていくように思える。


 そのアクションシーンでは、彼女たちは共通してタイトなコスチュームで着ている。アクションシーンでは動的な身体のラインが強度にアピールされるタイトな衣裳を身にまとっているのである。それらアクション・シーンは女性の身体的な魅力を印象的に見せつけるシーンとして作られているように思われる。彼女たちのアクションシーンはセクシーなダンスでも見ているような、動的な女性の身体表象のステージとして提示される。


 彼女たちが身に付けているタイトな衣裳とは、拘束のための衣裳を表す「ボンデージ」に通じる。ボンデージとは性的興奮を得るための拘束行為、もしくは拘束を行うための道具であるが、それは囚われの姫君たちの拘束された身体や状況と、密接な関連性をもっている。ダムゼル・イン・ディストレスを拘束するロープや手枷という拘束具によって拘束された状態を示すボンデージと、その衣装であるボンデージ・ファッションが一般的に広まったのは1990年代中旬からであった。時を同じくして、この時期から女性主人公たちのアクションシーンが台頭化し始めていった。


・ボンデージ・ファッション


 サディズムとマゾヒズム的な性的嗜好に基づいて行われるSMや、パンク・ファッションに見られる鋲付きの皮革やエナメルの衣装が、シャネルやベルサーチといったブランドで取り入れられて、1990年代の初めごろから通俗的にボンデージファッションと呼ばれるようになった。これらが発展して皮革・エナメル・ラバー(ゴム)などの素材を用いたフェティッシュ・ファッションと呼ばれる分野が、2000年代に入ってからファッションの分野に登場する。


 フォーマルウェアを着用した異性・若しくはフォーマルウェアそのものに対する偏愛・執着を見せるフェティシズム現象は古くから知られている。女性であれば男性のスーツやタキシード姿、男性であれば女性のドレス姿であったり、スカート、制服(メイド、セーラー服、CA)、舞台衣装などに偏愛をもつ者の存在は一般的となっている。


 その中でもラバー・フェティシズムと呼ばれる天然ゴムやPVCの感触に対する性的嗜好の固着は欧米を中心に広く発達している。ゴムには弾力性、伸縮性があり、また空気や水分を浸透させないという特徴がある。加工しやすい性質から雨合羽などのゴム製衣裳は早くから作られ始めていた。また空気や水を通さず、伸縮性のよさで肌に密着するゴムの衣裳は適度な拘束感と圧迫感を与える。その特徴は拘束や身体の閉塞感を偏愛するものにとって魅力的な衣裳となった。


 伸縮性のあるゴム製の衣裳は、着る者のボディラインを強調して見せる。もちろん女性的な脚線美もそうなのだが、身体の曲線にフェティシズムを感じるものたちにとっても、ゴムの服は身体を見る快楽を提供する。現在ではキャットスーツ、グローブ、ストッキング、ブーツ、様々なドレス、ゴム素材を使用した一般層をターゲットにした衣裳が数多く販売されている。1990年代後半から音楽アーティストも、ステージ衣装や、ミュージック・ビデオで使用するようになった。エルトン・ジョン、マドンナ、スパイス・ガールズ、ブリトニー・スピアーズ、リル・キム、レディー・ガガといったミュージシャンがボンデージの衣裳を身につけている。


 補足程度に触れておくと、1990年代に起きたゴム素材を使用したフェティッシュ・ファッションやボンデージ・ファッションの類型は、1980年代にボディコン(ボディ・コンシャス)としてすでに登場している。1981ミラノ・コレクションアズディン・アライアが発表した、身体に添ったデザインのドレスを発端とするボディ・コンシャスのスタイルは、日本でボディコンと呼ばれ浸透していった。ピンキー&ダイアンなどの デザイナーズ・ブランドから、さらにシルエットをシェイプしたスタイルのボディコン・ファッションが提案されていった。元々は女性の自己主張、解放を目指すファッションのひとつとされていたが、当時の日本では主にナイトクラビングで着る服として流行した。1990年代前半には東京芝浦にあったディスコジュリアナ東京」(19911994)などに、ワンレン・ボディコン姿の女性たちが多く集まっていた。ゴム製ではないにしろ、身体のボディーラインを強調したボンデージ・ファッションの衣裳は、20世紀後半ころから一般化していった。


・ボディーラインの強調

 

 アンジェリーナ・ジョリーとミラ・ジョヴォヴィッチの映画の話に戻ろう。スーツや軍服を着たマッチョな男優たちが演じた派手な大殺陣まわしの代わりを演じるようになった彼女たちが着ているのは、まぎれもなくラバー・フェティシズムの流れから生まれた同じ類似した性質をもつ衣裳である。その理由のひとつは、コミック・ヒーローやテレビゲームに登場する二次元キャラクターを題材とした映画が多いせいであると考えられる。非日常的な世界を描くSF作品がほとんどである。


 なぜ身体の躍動を見せつけるアクション映画がSF作品が主流となってしまったのか、なぜSFアクションの多くが女性ヒーローものになっているのか考えてみると、派手で奇抜な作品で収益における成功をもくろもうとする興業戦略が主な理由として考えられる。それは意識の写し鏡として、ありとあらゆる欲望を写しだそうとしてきた映画が、さらに欲望自体の生成装置である映画が、男性の求める理想の女性的な身体と、女性にとって憧れの対象となる身体の表象が興業的な収益を生みだしてきたからであろう。これらのアクション映画の主要な顧客である男性にとって、執拗なボディーラインの強調は、とりわけ特筆するべきことではなく古くから繰り返されてきた。しかし2000年前後から映画における女性表象のもっとも重要なシーンのひとつとして数多く描かれるようになってしまったことについて、ピグマリオン伝説から現在に至る物語と女性の表象の流れで捉えると興味深い。動かないものとして見つめられてきた女性が、映画の登場から100年もの時間経過を経て動く女性たちが意図的に表象されはじめたのだが、その一方で拘束を解かれた彼女たちの身体は見られるための拘束の衣裳をまとうよう再配置されたのである。それは動きを表す拘束の衣が施された新しい裸体の発明といってもいいだろう。


・西洋絵画におけるヌードと映画における性表現


 西洋絵画の歴史において、女性の裸体はビーナスや神話の登場人物といった宗教的テーマを掲げる大儀名分により大量製産されてきた。ルネッサンス以降から19世紀にかけて、絵画はより世俗的なものになり、女性の裸体像(ヌード)は通俗的に描かれ続けていった。さらに19世紀以降からは写真芸術に再配置された。


 写真に続く映画は常に大衆の芸術として成立した。映画館で鑑賞することを条件として制作される映画は、それまでの絵画や写真という所有されるイメージと異なり、大衆が公共の場で鑑賞する媒体であった。それゆえ映画は大衆芸術として繁盛していったのだが、常に倫理的な規制を常に課せられながら発展してきた。映画は常にその時代と地域性と倫理観など社会的コードに沿って成立しなければならない宿命を背負う。


 たとえば1934年に取り入れられて、1968年にMPAAアメリカ合衆国映画産業の業界団体)独自のレイティングが設けられるまで、アメリカ合衆国の映画における検閲制度として機能していた「ヘイズ・コード」の時代には、露骨な性的描写を含む映画の上映は厳しく取り締まられていて、映画制作会社はそれ相当のルールの中で恋愛や性的描写をおこなっていた。マリリン・モンロー主演のビリー・ワイルダー監督作品『お熱いのがお好き (1959)は、女装を題材としていたためMPAAの承認を取れないまま上映されていたが、これが大ヒットして、結果的にヘイズ・コードの威力が弱まっていった。R15+とかR18などの鑑賞できる映画を年齢制限で区切る現在のレイティングは、ヘイズ・コード失速後に一般化していったが、。ご存じの通り映画がDVDで販売され、レンタルで流通して、地上波テレビ放送だけでなく、CSGS、ネットで視聴される現在ではレイティングシステムが充分に機能しないのは周知の事実である。未成年者の鑑賞制限は保護者に委ねられている。(ヘイズ・コードやレイティングシステムは、もともと性表現を規制する目的のために作られていたが、現在では薬物使用や殺人シーンなど暴力表現に関する取り締まりも強化されている)


 身体表現の芸術性とポルノの線引きは難しい。確かに大衆にむけた影響力が強い映画の表現に制限は必要だろう。大衆映画はそれまで所有されることを前提とした絵画や写真と異なり、世界的に年々強化され続けていく性的表現が規制される中で、人類が注視し続ける身体を時代ごとに方法を変えて表象してきた。女性はそのもっとも重要な対象であるつづけている。


・動的な魅力


 視覚的欲望が反映されて、時代ごとの映画スターが生み出されてきた。先に挙げたヘイズ・コード終焉のきっかけとなる映画『お熱いのがお好き (1959)に出演していたマリリン・モンローはセックス・シンボルと呼ばれるトップスターだった。セックス・シンボルの定義は曖昧だが、男性であればエルヴィス・プレスリーをはじめ、マイケル・ジャクソンミック・ジャガーなどロックシンガーもその対象となるし、アンジェリーナ・ジョリーの他、パリス・ヒルトン、ブラッド・ピット、レオナルド・ディカプリオといった人々の名がでてくるように、性的魅力があるだけというだけではない。広くスター性や話題性をもつ人物の魅力の一部として考えるべきだろう。そのようなスターたちは風貌の美しさや容姿だけではなく、なにかしらの時代に必要とされる素養と、時流とシンクロする魅力をもっている。彼ら(彼女たち)になにかしら必然的な要素が無ければ、莫大な興業収益をあげられなかったであろう。ここで論じているのは彼女たちの魅力がどのようにスクリーンに描かれたのか、彼女たちにどのようなパフォーマンスが求められ、それがどのように表象されていたかである。


 絵画や写真との違いとして、公共性の高い映画は社会性が求められた点についてはすでに触れた。写真や絵画との相違点は動きである。映画は動的な視覚媒体なのだ。動きを見せる映画はダンスや演劇という舞台芸術や音楽のライブにむしろ近い。これまで絵画や写真という静止された人体や情景の中で描かれてきた女性たち、(アンドロメダの末裔として)これまで男性中心の神話構造の中に配置されていた女性とは違う動く女性像がアンジェリーナ・ジョリーとミラ・ジョヴォヴィッチに代表されるアクション映画で新しい動的なヌード的身体として表象されているのだ。


・ダムゼル・イン・ボンデージ


 現代のアクション映画で、女性は動的な視覚として再配置された。彼女たちはヌードではなくボンデージのコスチュームを身にまとっている。映画で殺陣を演じる彼女たちと同様に、ダンサブルなパフォーマンスで観客を魅了する彼ら(彼女たちの)のアクションは、まるでアスリートのようにも見える。テレビで中継されるスポーツを観戦するとき我々が声援を送り注視する鍛えられた身体の跳躍のようであり、ギリシャ時代の大理石彫刻に刻みこまれた裸体にみられる、躍動(リズム)と身体的バランス(調和)を追求した理想的な身体像をみるときと同じく、アクション映画におけるタイトな衣裳を身にまとった彼女たちの美しい肢体は、アスリートの様に、そしてダンサーたちの動き同じく、スクリーンの中で動き観客を魅了している。(それら女性の身体は『エヴァンゲリオン』などの日本で制作されているアニメ作品から知ることができる)



5 注視された女たちの歴史 ~静止から動態へ


 ダムゼル・イン・ディストレスの歴史は鎖に繋がれ拘束されたアンドロメダから始まり、アンドロメダの末裔であるジュリエットやオフェーリアといった悲劇のヒロインたちに物語は受け継がれていった。しかし1980年代くらいから彼女たちと異なるサラ・コナーやエレン・リプリーという逃げる女性たちが現れた。さらに2000年代に入ると、アンジェリーナ・ジョリーあるいはミラ・ジョヴォヴィッチに代表される戦う女性たちの映画が登場した。彼女たちはボンデージ・コスチュームに身を包み、女性の身体の美しさをアピールする動く女性像であった。


 ダムゼル・イン・ディストレスとは男性中心の神話世界において男性により対象としてやりとりされる人格であった。ウラジミール・プロッブらロシアフォーマリズムの研究者たちは、ダムゼル・イン・ディストレスの姫君を人格ではなく主人公である男性が勝ち取る宝物や報酬として論じた。主人公である男性は(最終的な成り行きとして)自分たちに褒美として与えられる対象として、彼女たちを拘束から解放していたのだが、現在では彼女たちはだれの助けも借りず、あたかも自分自身を解放するのが目的のように戦いに赴く。しかし皮肉にも彼女たちは拘束の衣裳に身を包んでいるのえある。彼女たちの拘束とはボンデージのコスチュームに置き換えられ、スポーツ中継と同じく、動く身体は無防備で、それゆえ美しい。それは映画がこれまで描いてこなかった女性像の現在系なのかもしれない。


 18世紀の民主化運動に始まる女性解放運動と公民権運動、さらにフェミニズム、ウーマンリブを経て、現在のジェンダー意識がある。映画は人間の欲望の鏡として、すべての欲望の対象を写しだそうとしてきた。その映画の中でも少なからず女性の表象は変化してきた。映画だけでなく小説など、我々を取り巻くすべての表象文化すべてに同様の変容が読み取れるであろう。さらにそのような表象が次の表象を創り出し、我々の身体や他者、あるいは異性に対するイメージの有りようを変えていく。


 従来のダムゼル・イン・ディストレスの女性たちがもがき苦しんでいる状況から解放されて、主人公の男性の妻にめとられる神話構造と異なり、ダムゼル・イン・ボンデージの物語は、男性主人公の存在が欠落していて、彼女たちの物語は従来通りの完結を迎えない。彼女たちに葛藤にも実は終わりがなく続編へと持ち越されていく。それゆえ、観客は、終わりのない物語の中で、女性を注視しつづける。

 

 映画が発明されてまもなく「我々は驚くべき芸術の誕生に立ち会っている。これは恐らく 唯一の近代芸術であろう。何故なら同時に機械の娘であり、人間の理想の娘であるから・・・」とルイ・デリュックは語った。映画は常に人間の理想を語ろうとしてきた。機械の娘、その言葉は、未来のイブに登場した理想の身体をもつアンドロイドのハリダーを思いださせる。ハリダーとはペルシャ語で「理想」を意味する。ピグマリオンが夢見て作りあげた理想の女性の像が動き出したように、映画の中で女性たちが動いている。